08:57 pm - Friday 16 April 2021

台灣三代總督-乃木希典

週二 2012年03月27日, 11:35 上午【點此取得本文短網址】

  • 0 Comments
  • 7303 views
  • Print Print
文章來源

現今苗栗南莊的日本時代三大文化資產-乃木崎
是日本近代被尊為”聖將”的乃木希典私下捐錢興建的
其由為明治30年到南莊視察時 因為上坡路面泥濘難行
為了體諒人民爬階體力不支 必須中途放置挑物休息
乃木將軍於是捐出五十圓供修路使用 讓軍隊和居民都方便行走
後來地方人士也陸續募集經費舖設石階 並歷經多次整修
因階梯的日文稱為「崎」 且後人為了紀念乃木將軍拋磚引玉的精神 遂將石階取名為乃木崎
…………………………………………………..
從這點可以看出 乃木總督
是一位體恤人民 有著武士道精神的大將……………………………….


乃木希典01

乃木希典(1849-1912)與東鄉平八郎共同被日本人視為日俄戰爭英雄。
乃木希典年輕時到德國留學,深受質實剛健普魯士軍人影響。
1896年,乃木希典擔任台灣總督,當他上任時,歡迎他的不是總督府官員,而是台灣島民,因為乃木希典昔日擔任台灣南部守備軍司令官時,嚴厲要求軍紀,不准部下侵犯台灣人的財產,當地民眾非常感激,稱呼乃木希典為「乃木大人」,他們對乃木希典記憶猶新,所以乃木希典擔任台灣總督,他們特地前來歡迎。
第二代台灣總督桂太郎擁有台灣島上日軍的統帥權,生殺予奪任其而為,台灣人稱他為「土皇帝」,桂太郎很喜歡接受商人、富豪送他禮物。上樑不正下樑歪,他的部下也都喜歡收受賄賂。乃木希典擔任台灣總督後,一切拒絕。乃木希典也嚴禁部下接受台灣人的飲酒招待,違反者一律辭職。
乃木希典上任第一天就下達指示,不得濫用職權,鞭打或拷問不服從者。不得侵犯台灣人的舊習慣,如綁辮子、纏腳,衣服、帽子也任其自由穿戴。
乃木希典也開始建設、修補道路,首先是台北週遭道路,接著是縱貫南北的道路。
乃木希典也增設學校、醫院,從他擔任總督起到50年後,初等學校由0增加到1100所,中等學校由0增加到180所,師範學校由0增加到4所,大專由0增加到6所。醫生也由幾乎0人增加到3千人,公立醫院由0所增加到12所。
乃木希典知道人有了資產,就想要名譽,便公佈「台灣紳章規定」,規定擁有財產且言行端正的紳士,由總督府授予各種等級的勛章。乃木希典認為人有善行就應該得到褒揚,這樣才會導正社會風氣。
乃木希典將69歲的母親接到台灣奉養,可是母親到台灣兩個月後就罹患瘧疾去世。乃木希典沒有把母親的遺骨拿回日本埋葬,而是埋在台灣,表示他也願意終老於此。台灣當時常常一不小心就會感染鼠疫、霍亂、傷寒和瘧疾。
乃木希典因為太嚴格查賄,讓日本內閣擔心怕會影響總督府形像,遭來輿論批判,便寧可掩蓋腐敗事實。乃木希典看自己的施政得不到中央的支持,便於1898年辭職而去,他擔任台灣總督只有一年三個月。
(引用呂理州的部落格:乃木希典)
http://lulichou.blogspot.com/2010/03/blog-post_25.html

在西南戰爭(明治政府討伐西鄉隆盛的戰爭)時拿軍旗的士兵被殺,軍旗被薩摩軍奪走。乃木希典非常自責,拚命往前衝,企圖戰死,負傷之後,被抬到野戰醫院,仍舊企圖逃脫到前線作戰。
後來乃木希典寫請罪書給總指揮官山縣有朋,請求嚴厲處分。可是山縣有朋認為乃木希典失去軍旗後,仍奮戰不懈,而且還自請處分,因此不問罪。但是乃木希典仍相當自責,一日,乃木希典企圖切腹自殺,被兒玉源太郎發現並阻止。乃木希典說:「軍旗是天皇陛下授予的,我必須以死負責!」兒玉源太郎則嚴厲斥責他。

後來日俄戰爭爆發,乃木希典和他的兩個兒子勝典、保典上前線,不幸乃木希典的兩個兒子在日俄戰爭中戰死。
1907年,乃木希典擔任學習院院長,教育皇室子弟,據說對昭和天皇也很嚴厲。

日俄戰爭時,日軍費盡千辛萬苦才攻下旅順,加上乃木希典的兩個兒子都戰死,因此乃木希典凱旋回國時,很多日本人去迎接他。
日俄戰爭後,乃木希典聽到戰死或戰傷的部下,他們的家庭若陷入貧困,就會秘密造訪,送給對方金錢。
1912年9月13日明治天皇出殯當天晚上,乃木希典的妻子靜子首先以刀刺自己的胸部自殺,接著乃木希典切腹,然後再切斷自己的頸動脈,死亡。享年62歲。乃木希典的遺書寫道,他在西南戰爭時失去軍旗,早就想自殺。
乃木希典為明治天皇殉死後,日本各地興建起乃木神社。日本戰勝俄國也讓飽受俄國南下威脅的奧斯曼帝國非常開心,乃木希典成了奧斯曼帝國的英雄,許多父母親都把他們的孩子取名「乃木」的土耳其語發音。
昭和天皇一直到晚年,時常說乃木希典是他生涯最尊敬的人物。
理州上 2010年3月26日
(引用呂理州的部落格:乃木希典)
http://lulichou.blogspot.com/2010/03/blog-post_25.html


乃木大將寫真

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大將従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代學習院院長。贈正二位(1916年)。家紋は「市松四つ目結い」。「乃木大將」、「乃木將軍」などの呼稱で呼ばれることも多い。

東郷平八郎とともに日露戦爭の英雄とされ、「聖將」と呼ばれた。しかしいわゆる「殉死」の評価についても諸説あるように、司馬遼太郎など「愚將」とする考え方もあるが、これに対する名將論・反論・擁護論も數多くある[1]。

若い頃は放蕩の限りを盡くしたが、ドイツ帝國留學において質実剛健なプロイセン軍人に影響を受け、帰國後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。當時にしては上背があり、頭部が小振りで、足が長く長靴の軍裝が映えた。

乃木は他の將官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを司令官として過ごした。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、當時の日本國民に多大な衝撃を與えた。

山口県、栃木県、東京都、北海道など、複數の地に乃木を祀った乃木神社がある。

幾つかの文獻で元帥となっているが、乃木が元帥だった事実は無い(元帥の稱號を賜る話はあったが、乃木本人が固辭したため)。


乃木大將寫真

嘉永2年(1849年) – 現在の東京都港區に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・乃木壽子(のぎ ひさこ))(久子表記の文獻あり)の三男(長兄・次兄が相次いで夭折したため、事実上の長男)に生まれる。現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地。幼少期に蚊帳の下で寢ていた處、蚊帳の金具が落ちて左目に當たった為、左目がほぼ失明狀態となる。
安政5年(1858年)- 長府に帰郷。
慶応元年(1865年)- 長府藩報國隊に入り奇兵隊に合流し幕府軍と戦う。
明治4年(1871年) – 陸軍少佐に任官。
明治10年(1877年) – 歩兵第14連隊長心得として西南戦爭に參加。軍旗を薩摩軍に奪われた。乃木はこれを終生忘れることはなかった。この事が後に乃木の自刃の遠因となる(軍旗を參照)。
明治19年(1886年) – 川上操六らとともにドイツに留學。
明治27年(1894年) – 歩兵第1旅団長(陸軍少將)として日清戦爭に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。
明治28年(1895年) – 第2師団長(陸軍中將)として台灣征討に參加。
明治29年(1896年) – 台灣総督に就任。
明治31年(1898年) – 台灣統治失敗の責任をとって台灣総督辭職。
明治32年(1899年) – 第11師団の初代師団長(中將)に親補せられる。
明治37年(1904年) – 休職中の身であったが日露戦爭の開戦にともない、第三軍司令官(大將)として旅順攻撃を指揮。2児の勝典が金州南山で、保典が203高地でそれぞれ戦死する。
明治40年(1907年) – 學習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。
大正元年(1912年) – 明治天皇大葬の9月13日夜、妻靜子とともに自刃。享年62。墓所は港區青山霊園。
大正5年(1916年) – 裕仁親王の立太子禮に際して、正二位を追贈される。


自決當日の乃木夫妻

秋月の亂・萩の亂、西南戦爭
乃木は陸軍入隊の際に少佐として任官され、第14連隊長心得として小倉に赴任する。時を置かず勃発した秋月の亂を鎮圧、つづいて西南戦爭に従軍した。西南戦爭では、初戦時、退卻の際に軍旗を持たせた兵が討たれ、軍旗が薩摩軍に奪われた。乃木は激しく自分を責め、まるで戦死を望むかのような蠻戦をくりかえす。負傷して野戦病院に入院しても脫走して戦地に赴こうとした。退院後は熊本鎮台の參謀となり第一線指揮から離れた。乃木の行動に自殺願望をみた山縣有朋や児玉源太郎など周囲が謀った事と言われる。

乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に待罪書を送り、厳しい處分を求めた。しかし、軍旗紛失後の奮戦も含め、自ら處罰を求めた乃木の行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問とされた。しかし乃木は納得せず、ある日切腹を図ったがすんでの所で児玉に取り押さえられるという事件があったと言われる。「軍旗は天皇陛下から給わったもの。詫びなければならない」と言って譲らない乃木に対し、児玉は厳しく諫めたという。

後に乃木が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。大將にまで上り詰めた乃木が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壯烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を與えた。

一連の士族爭亂は、乃木にとって実に辛い戦爭であった。軍旗を失うという恥辱もさることながら、萩の亂では実弟・玉木正誼が敵対する士族軍について戦死している(正誼は兄・希典に士族軍に付くよう何度も説得していた)。さらには、師であり、正誼の養父でもあった玉木文之進が、萩の亂に正誼と弟子らが參加した責任を感じて切腹した。この後、乃木の放蕩が尋常でなくなり、たびたび暴力まで振るうようになったことから、西南戦爭が乃木の精神に與えた傷がいかに深かったかが知れる。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留學まで続いた。

台灣統治
台灣総督時代には抵抗運動鎮圧に苦労し、後の児玉源太郎や明石元二郎のような積極的な內政整備は出來なかった。そのため、本人も総督としての職務失敗を理由に辭職してしまった。ただし、蔡焜燦は、あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になったことは支配側の綱紀粛正や現地人の信頼獲得に大いに役立ち、児玉時代以降の発展の基礎を築いたと高く評価している。

日露戦爭・旅順攻略戦
日露戦爭では、旅順要塞攻略のために新たに編成された第三軍の司令官に任命される。第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白晝突撃を敢行させ多くの犠牲者を出した。乃木はこの失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させた。この一連の戦闘で次男保典少尉が戦死(長男勝典も、先に行われた南山の戦いで戦死している)。

ロシア旅順要塞攻略後に同要塞司令官アナトーリイ・ステッセリとの間で水師営の會見が行われた。乃木は紳士的にふるまい、従軍記者たちの再三の要求にも関わらず會見寫真は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名譽を重んじた。

旅順攻略戦が極めて困難であったことや、二人の子息を戦死で亡くしたことから、乃木の凱旋には多くの國民が押し寄せた。

日露戦爭時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれる。當時は名將論が一般的であったが、一部に乃木無能論もあった。これが広まったのは1960年代末から書かれた司馬遼太郎の『阪の上の雲』によるところが大きい。司馬の『阪の上の雲』に対して、その刊行後、すぐに乃木擁護論が反論されるなど、大きな反響をもたらした。

後、各戦役での活躍や、徳行から乃木希典は軍の武徳の具現者と見なされた。明治天皇を追った殉死の後は、日本各地に乃木神社が建てられ、文武の神として崇められた。支那事変から大東亜戦爭の間、軍部の國家総動員政策のうち精神動員に、乃木は陸軍の英雄として利用され、國民の戦意をあおった。戦後『阪の上の雲』発表當時も、世間ではまだ乃木に対する好感は高かった。乃木の功績や、名將・凡將・愚將論は今日も定まっていない。

他方日露戦爭での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝國で歓喜をもって迎えられた。乃木はオスマン帝國でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという[2]。

日露戦爭後の乃木
少將時代の乃木が訪れた金沢の街で辻佔売りの少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に當時としてはかなりの大金である金二円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順戦を絡めた上で腳色され「乃木將軍と辻佔売り」という唱歌や講談ダネで有名になった。

戦時中は一般國民にまで戦下手と罵られた乃木であったが、水師営の會見をはじめとする、多々の徳行、高潔な振舞いにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。諸外國の報導機関では乃木を日本軍人の典型として紹介し、明治時代の日本人の地位を大きく向上させることに一役買った。

戦後の乃木は、旅順や奉天で戦死・戦傷した部下や遺族の窮狀を聞くと、密かに訪れて見舞金を渡したり、従者を送ったりした。やがてこのことは報導機関の知るところになり、乃木はさらに神格化された。また、上腕切斷者のために自ら設計に參加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を擔保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお禮を述べる手紙が乃木あてに屆き、乃木が感涙にむせんだという逸話も新聞にも取り上げられ、庶民の「乃木將軍」はますます大きくなり、英雄・偉人というだけでなく、ある種の信仰対象という域までになった。例えば、子供が好き嫌いをすると、母親が「乃木將軍が子供の頃は、嫌いなものを殘すと、食べるまで何度も嫌いなものが出されたのよ」などと、乃木を引き合いに出して叱責するといった具合であった。

少年時代の石原莞爾が、興味本位で紹介狀も無く、いきなり乃木を訪ねた際に乃木は喜んで石原を家に招き入れた(石原も「乃木閣下ならば紹介狀が無くても必ず會ってくれる」と確信して訪問していたようである)。日露戦爭の補給線などに関わる質問にも、地図を持ち出して來て丁寧に答え、暇乞いをしようとする石原に夕飯を食べてゆくよう勧めた。石原には白米の飯を出されたが、「閣下と同じ物を食べたいのです」と乃木が日露戦爭時から食べていた稗飯をせがんだ。石原は稗飯のあまりの味のなさには閉口したが、それでもぜんぶ平らげて乃木を感心させた。

乃木は明治天皇からの信望が厚く、明治天皇が後継者と期待していた裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として學習院院長に命じられる。幼親王も乃木を慕い、乃木も聡明な親王に陽明學を勧めた。殉死の前日、乃木は親王に自ら寫本した山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。當時弱冠10歳の親王は、乃木のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。昭和天皇は晩年まで、生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けた。

殉死とその影響
乃木は、大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。まず靜子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、再び衣服を整えたうえで、自ら頚動脈と気管を切斷して絶命した。遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦爭時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は

うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
という辭世を詠んでいる。

日露戦爭時において乃木は子息を無くし、多くの犠牲者を出したことから、責任を取るために切腹を申し出ていたが、明治天皇から制止され、子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと學習院の院長を命ぜられた。その際「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と言われた通り、明治天皇崩御に合わせ殉死した。

この事件は當時の社會にあってきわめて衝撃的に受け止められ、結果的に死後乃木の盛名をさらに高からしめることになった。事件に対する態度は主として、

1.天皇に忠誠を誓う武士道的精神、軍人精神の極致として賞賛する受け止め方
2.封建制の遺風による野蠻で時代遅れの行為として皮肉にとらえる受け止め方
3.作戦失敗を繰り返し、多くの部下を無為に死傷させた、當然の結果という受け止め方
4.古武士のような徹底した清廉な生き方を稱賛する受け止め方
の4種類に區分できる。生前から(4)の受け止め方は國民の間で主流であった。事件直後は(1)(2)(3)(4)が混在していたが、やがて大正デモクラシーの影響によって(2)の立場を取る側とそれに対抗して乃木を神格化しようとする(1)の立場が主流になる。昭和初年ごろから社會全體が右傾化してゆく風潮のなかで(1)が圧倒的な勢力を得たこともあった。戦後は、陸軍悪玉論や軍人に対する嫌悪感から(3)を支持する意見と、(4)を支持する意見がある。

(1)の立場はもちろん、何時の世にも存在する。なお、夏目漱石の『こころ』における受け止め方がその典型であるという意見が極めて一部にあるが「こころ」の先生も、漱石自身も乃木の自殺を(1)のような立場で「天皇に忠誠を誓う武士道的精神を賞賛する」受け止め方はしていない。「こころ」の先生と遺書、56節を一読すればわかることである。
(2)については森鴎外の『興津彌五右衛門の遺書』、『阿部一族』などが挙げられる。(鴎外は乃木の殉死に衝撃を受けてこの作品を執筆した)。
(3)については京都帝國大學教授谷本富(とめり)、信濃毎日新聞主筆桐生悠々などが、事件直後に新聞紙上で殉死批判を展開した結果物議を醸すこととなった。
(4)については乃木夫妻の殉死後、日本各地に乃木神社が建てられたのが、代表的な例として挙げられる。
このほか、彼を題材にした文學作品に櫻井忠溫の『將軍乃木』『大乃木』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『將軍』、渡辺淳一の『靜寂の聲』などがある。

また、第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、『乃木大將と日本人(原題『Nogi’)』を著し故人を讃えた。

乃木伯爵家は成人した息子は二人とも日露戦爭で戦死、長女と三男は夭折した。息子の戦死後、乃木家の戸籍に入っていた実弟集作を大館氏に養子として出したため嗣子がおらず、山縣有朋や寺內正毅らは養子を立てて相続させようと畫策したが、乃木の遺言により廃絶している。しかし乃木夫妻の死からちょうど3年後にあたる大正4年(1915年)9月13日、乃木家の舊主にあたる長府藩主の後裔、毛利元敏の次男・元智が伯爵に敘爵され、姓も乃木に改めた上で新乃木伯爵家を創設したが批判の聲が強く、元智は昭和9年(1934年)に爵位を返上、姓も毛利に戻した。

水師営の會見
作詞:佐々木信綱  作曲:岡野貞一
小學唱歌(明治39年6月)

1
旅順(りょじゅん)開城約成りて
敵の將軍ステッセル
乃木大將と會見の
所は何處水師営(いづこすいしえい)

2
庭に一本棗(ひともとなつめ)の木
弾丸(たま)あとも著(いちじる)しく
崩れ殘れる民屋(みんおく)に
今ぞ相見る二將軍

3
乃木大將は厳かに
御恵(みめぐ)み深き大君の
大みことのり伝うれば
彼かしこみて謝しまつる

4
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
我は讃(たた)えつ彼(か)の防備
彼は讃(たた)えつ我が武勇

5
かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に
二子を失い給いつる
閣下の心如何にぞ」と

6
「二人のわが子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目」と
大將答え力あり

7
両將晝食(ひるげ)ともにして
なおも盡きせぬ物語
「我に愛する良馬あり
今日の紀念に獻ずべし」

8
「厚意謝するに余りあり
軍の掟に従いて
他日我が手に受領せば
長く労(いたわ)り養わん」

9
「さらば」と握手懇ろに
別れて行くや右左
砲音絶えし砲台に
閃(ひらめ)き立てり日の御旗

參考引用
呂理州的部落格:乃木希典
http://lulichou.blogspot.com/2010/03/blog-post_25.html

乃木希典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

來源:http://blog.roodo.com/kcn/archives/12617647.html

  • 0 Comments
  • 1 Star2 Stars3 Stars4 Stars5 Stars (No Ratings Yet)
    Loading...
  • 7303 views

Leave a Reply